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X線の歴史

X線の発見

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン博士(1845-1923)、この人こそがX線を発見し、世界中にその功績を知られた研究者です。
このレントゲン博士が「放射線の新種」と題して1895年12月28日に発表した報告書で「手が透けて骨を見ることが出来る」というX線の興味深い特徴が示されました。
レントゲンは数字で未知の数を意味する”X”を用いて、この謎の光線をX線と呼びました。
それでもなお、博士の名にちなんだ「レントゲン撮影」という呼び名も一般的になるほど生活に馴染み深いものになっています。
このX線の発見を日本に伝えたのは、発表から2ヶ月ほど経った1896年2月、当時ドイツに留学していた物理学者の長岡半太郎の手紙でした。
日本の第一線の物理学者たちは、この知らせを受けて次々に検証実験を行いました。また、同月の医学誌にはベルリンの学会での講演紹介とともに医学への応用も提唱されていました。
その後同年3月の新聞などでこの大発見が伝えられ、日本中に知れ渡っていきました。

日本でのX線研究

日本で最初にX線の発生に成功したのは、1896年の3月、第一高等学校(現 東京大学教養学部)と東京帝国大学のグループです。
同じく京都では同年の初夏に第三高等学校(現 京都大学総合人間学部)の村岡範為馳(はんいち)教授のグループがX線発生の実験を行いました。
同年7月に村岡はX線に関する講演を行い、その内容は京都府教育会の「レントゲン氏X放射線の話」にまとられています。
しかし一方で京都ではX線を発生するのに必要な装置が手に入りませんでした。そこで村岡らは島津製作所の二代目島津源蔵らに協力を求めました。
そして村岡と島津らは1896年10月に島津製作所製の大型起電機を用いてX線の発生に成功します。
これが島津製作所が国内で初めて医療用、そして工業用X線装置を製品化する基盤となりました。

X線と京都

X線の発生実験には真空度の高いガラス管、高電圧をかけることのできる電源装置、そして目に見えないX線を受け取る検出器の3つが必要です。
これらの装置は1896年当時の日本には数えるほどしか存在しませんでした。そこでドイツから持ち帰ったガラスX線管を使用することで、ついに一円銀貨のX線撮影に成功します。
その後も村岡と島津のチームはより安定したX線を出せるようにするためにX線装置の改良を続けました。
1897年、電池とコイルを使用した電源が完成に至ると、島津製作所が日本で初めて教育用X線装置を制作し、普及のための実演講演を展開しました。
その後、島津製作所が1909年に国産初の医療用X線装置を製品化させたほか、1927年には日本初のX線技術者養成学校を、島津製作所創業の京都市内に開設しました。
また、村岡は1901年、レントゲンが第1回のノーベル物理学賞を受賞した際の祝賀会に、日本人としてただ一人招待されました。

X線装置の進化

1913年、米国GE社のウィリアム・デービッド・クーリッジがフィラメント温度を変えることでX線強度を調整できるクーリッジ管を発明しました。
この登場によりX線の利用幅が大きく広がりました。
X線を発生させるために必要なX線管は大正初期まではほとんどドイツからの輸入に頼っていました。
しかし第一次世界大戦でドイツからの輸入が途絶えたことが医療業界で大きな問題となり、X線管の国産化が要請されました。
しかしクーリッジ管の特許が失効する1934年までこのX線管を自由につくることはできませんでした。
一方、レントゲン博士はX線の特許は申請せず、自由に使われるべきものといる理念であったため、X線の利用は世界に広がりました。

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